漆黒の暗闇

 漆黒の暗闇。光を知るものには暗く、闇を知るものには明るい―――冥府の世界。

 日々絶え間なく響く死者達の声は聞く者の表情を悲痛にゆがませるには十分すぎるものだった。

 無慈悲などとはいわない。その声全てを聞き分け裁きをするには、無情な選択をもいとわない。否、無情でなければ死者の国に《死人》以外の立場でいられるはずがなかった。

その暗闇の中―――闇よりも深い漆黒の髪を持つ青年がたたずんでいた。

表情のない深い紫色の瞳に、未だ感情がこもったことを見るものは少ない。それは冥界で死者たちを裁く神々ですら見る者は稀だった。

「・・・・泣いて、いるのか」

 静かな声は、誰に語られるものではなく・・・ただ、しゃくりあげる声を押し殺し泣き続ける少女へと視線を向けていた。

 常に無の表情を貼り付けられたその端整な顔立ちに、困惑と悲哀。そして―――深いまでの愛しさを浮かべて、その少女を見つめていた。

「お願い、帰して!!私を天界に帰してよっ!!」

 冥界の闇にはまぶしい春色の髪を揺らし、涙にぬれた瞳が訴える。だがハデスは、何も言わずただその場に座り込み泣き続けるペルセポネを見下ろしていた。それが彼女には更なる恐怖を与えたのかもしれない―――止むことのない涙ながらの訴えは、闇の世界へと木霊していた。

 正直なところ、ハデスは戸惑っていた。何故、つれてきてしまったのか・・・自分でもらしくない行動だという自覚はしていた。だが―――

 色鮮やかな外の世界で微笑むこの少女を、まぶしく―――愛しく感じてしまった。

 自分の弟でもあり兄でもある我等神々の最高神が時折語る一方的な話。天界の仕事をさぼってまでこちらに顔をだす彼に《女性の素晴らしさはなんたるか》を幾度も聞いてきた。だがずっと冥界にこもりきりだった自分にとってそれは理解しがたい話だった。

「(これが・・・ゼウスの言っていたことなんだろうな)」

 愛しい、恋しい―――言葉は何でもいい。ただ共にいたい。傍にいたいと思うこの気持ち。しかしそれは、犯してしまった後に相手の幸福を踏みにじったものだと気が付いた。

 冥界に一度つれてきてしまったら、いくら冥王であってもそうそう地上に戻すことはできない。そして何より、彼女を手放したくなかった―――。

「・・・帰して・・・帰してよぉ・・・」

 泣きじゃくるこの姿でさえ、愛しいと思ってしまう。

「・・・・・っ」

 伸ばしかけた手を、そのまま引っ込めた。

 無理やりに手に入れて、一体何になるというのか

 自分の奥底で、低い声が問うてくる。分かっている、そう何度も答え、死者達の」どんな悲痛な訴えにも眉一つ動かさなかった自分が彼女の声にここまでも揺れている。

 欲しいと願って、望むことを生まれてこの方経験したことが少ない自分には、何をどうすればいいのか分からなかった。

×××         ×××         ×××

「――――っ」

 急に視界が広がった。

 ほぼ無意識に震えた体に呆れたようなため息をついて、冥界の闇に溶け込むような漆黒の髪を乱雑にかきあげた。

「(・・・眠ってしまったのか)」

 地上ではもう秋がすぎ冬が近づこうとしている。それにつれ、地上の餓死者が増え始めてくるのだ。今はまだ少ないがそろそろそれが本格的にやってくる。今のうちに終わる仕事は終わらせておかねば忙しくて身がもたない。

 神である彼自身過労で死ぬことはない。だが、それでもやはり休息は必要だ。しかしそんな時間を惜しむかのようにハデスは覚醒した意識の中、再び書類に目を通し始めた。

「―――お休みにはなられないので?王よ」

 その時、突如としてしわがれた声が静かに響いてきた。

「・・・カロンか。仕事はどうした」

 手を一瞬だけとめはしたものの、ハデスは視線をあげることなく淡々と言葉を放った。

「今こちらに死者を運びましたところ。許しもなく御前へまかりでたことはお詫び申し上げます」

 視線を向けずとも分かる大仰なしぐさな謝罪にハデスは一蹴するように言葉を投げつけた。

「すぐさま戻れ」

 たった一言にこめられた意味は、ステュクス河の渡し守にはちゃんと通じている。

唯一冥界へと死者の魂を運び込める渡し守の舟―――放っておけば岸に死霊はあふれかえり、いずれは地上へと舞い戻り害をなすものが出てきてしまう。

「はい、それがわしの役目なればすぐさまにでも。ですがそれよりも前に―――」

 穏やか、とは程遠いかすれた老人の声。だが不思議と重みのある声は、ゆっくりと告げた。

「『あの者は《殺す女》にございます―――』」

 ハデスの手が止まった。

「『地上の命を、はては貴方様の心をを・・・《殺す女》になりましょうぞ』」

 ゆっくりとあげられた漆黒の瞳が見据えるは、みすぼらしい衣をまとった老人。頭をひれ伏し、決して視線をあわせようとはせぬ臣下としての姿勢を崩さぬ者。

「『貴方様ともあろうものが、それを分からぬはずがありませぬ。どうか―――』」

「『そなたの言いたいことはよく分かった』」

 感情のこもらぬ、両者の言葉。まるで紙に書いてある文字を読み上げるかのような無機質な声音。

「『だが私はすでに覚悟をしている。その覚悟できずして何故冥府の王を名乗れようか――――人の命とはいずれ尽きるもの。それが早いか遅いかだけの違い』」

 両者の唇の端が、ゆっくりと持ち上がる。

 カタン、と小さな音を立ててイスから立ち上がったハデスはそのまま足を進め、カロンの脇を通り過ぎた。

「『・・・あと、少しの本音だ。たまには我が儘を言ってみたい』」

 過去の再現―――もはや何年前のことかなど神である彼等は覚えていない。だが、決して衰えることのない記憶の中で、彼はこのとき確かに笑みを浮かべたのだ。

 天空の神と呼ばれ、神々の王座にすわりし金色に輝く神―――冥府の王の弟であり兄でもある現神々の最高神と同じ笑みを。

「『承知いたしました、とお応えいたしましょう』」

 背を向けた状態のまま、カロンの下げられていた頭が上がり衣のこすれあう音を残してその気配は去っていった。

 完全になくなった気配に対しふっとはたからでは分からぬほどの笑みを残す。何年たとうと、あの念のいりようは苦笑しかこぼれない。

 ハデスはそのまま踵は返さず、足をまっすぐに向けて歩みだした。

 カロンよ。お前の心配は日々増える死者たちへの同情か、それとも私への軽蔑か―――

 音にしない言葉が脳裏の中で紡がれる。

 足元にかかるほどまで長い衣が歩みとともに軽やかにゆれる。踏み出す歩みに迷いはなく、止まることはない。

 生れ落ちての生の中で、私が初めて望んだものだ

 進めた歩みの先には開けた場。そこには死者の魂はひとつもない。

 歩みを止めたところで見上げた天に地上は見えず、ただ静かな暗闇が広がっている。

 そこに――― 一陣の風が舞い降りた。

 決して、譲れぬ我が儘だ―――

 あのとき伸ばせなかった手を、ゆっくりと天へと伸ばす。

 深緑の神とともに舞い降りた春色の髪をなびかせる女神が、その手の上にそっと自らの手を重ねた。

「―――ハデス!」

 あふれんばかりの花の笑みは、私の初めて望んだもの。

「・・・ペルセポネ」

 静かに呼んだその名に、心からの愛しさを込めて―――暗き闇に、光を宿してくれた最愛の者を迎え入れた。

あとがき

スミマセン、何やらおさまりがつかなくなりました(汗

記念すべき1000HITということで朝霧様からリクエストをいただいたのですが、冥王夫婦+αしかだせず申し訳ございませんでした;;

カロン爺さんはあれです、エキストラ(+α)ですb

時期的には最初の回想がハデス様がペルセポネをさらったあたりで、回想終了あたりがペルセポネが冥界に慣れてきてハデス様とおしどり夫婦(笑)になったあたりです。

結構おくれてしまいましたが、1000HITおめでとうございます。そして、リクエストありがとうございました!

※朝霧朱音様のみお持ち帰り可です。

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